24 橋と街道と渡しのお話し
かつて、NHK・Eテレの0655という番組内で、ご当地再発見!ソングと銘打ち「さらば、豊橋」という曲が流れていました。
「ほんとにあるのね、ほんとにあるのね、豊橋に豊橋(とよばし)」というユーモラスなリフレインが今でも耳に残っています。
ちなみに、豊川を渡り豊橋市の中心市街地へ至る二つのメインアクセスで、県道496号に架かる橋が「豊橋(とよばし)」、国道1号に架かる橋が「吉田大橋」ですが、もともと二つの名称は同じ橋を指すものだったそうです。
県道496号に架かる豊橋(とよばし)
さて、律令時代の昔から数多の人が行き来した東海道は、そのルート上に難所となる複数の大河川が横たわっていました。
そのうちのひとつはもちろん、飽海川(あくみがわ)、吉田川と名称の変遷を辿った今日の豊川です。
この豊川に架かる吉田大橋は、江戸幕府が東海道の重要な橋として直営で管理する五大官橋にも位置付けられていました。
吉田大橋の起源ははっきりしませんが、「どうする家康」で大森南朋さん演じる酒井忠次が吉田城主であった1570年に、現在の吉田大橋(国道1号)付近に土橋を架けたのが始まりとされています。
復元された吉田城の鉄櫓(くろがねやぐら)
その後、家康の関東移封によって吉田城主となった池田輝政が、船町の整備とともに現在の豊橋(県道496号)付近に架けた木橋が吉田大橋となり、30回を超える修繕や架け替えを乗り越えて、東海道を往来する人々の助けとなってきました。
そして、時代は下って明治となり、1878年の架け替えに際して吉田大橋は「豊橋」と命名されることとなります。
なお、現在の豊橋(県道496号)は1986年に、現在の吉田大橋(国道1号)は1959年に架設されたものです。
歌川広重 東海道五十三次 吉田 豊川ノ橋
続いては街道のお話し。
東海道五十三次のうち、この東三河地域には二川(33番目)、吉田(34番目)、御油(35番目)、赤坂(36番目)と四つの宿場町がありました。
当時の流行り歌に「御油や赤坂、吉田がなけりゃ、なんのよしみで江戸通い」とあったほどの賑わいで、これらの宿場町で遊んで行くのが当時の江戸出張のお楽しみだったようです。
そうしたなか私が興味を持ったのは、御油宿と赤坂宿との間の距離がわずか16町(約1.7キロメートル)で、東海道に所在する宿場町間の間隔では一番短いという事実です。
この理由は判然としませんが、幕府の管理上は一体の宿場として扱われていたり、東海道を往還する人が上り下りで宿場を使い分けていたりした記録が残っているようです。
ちなみに、松尾芭蕉も「夏の月 御油より出でて 赤坂や」とその距離の近さを詠っているそうです。
なお、江戸幕府は、全国支配のために東海道を含む主要な五街道を整備しますが、その一環として街道沿いに並木を植えることを指示しました。国の天然記念物「御油のマツ並木」は、この時に植えられたものが起源で、御油宿と赤坂宿はこの松並木を間に挟んで隣接しています。
御油のマツ並木
現在、豊川市赤坂地区には、宿場町の面影を残す「大橋屋(旧旅籠鯉屋)」が豊川市によって保存されています。予約をすればボランティアガイドの方が丁寧にご案内してくださいますので、足を運んでみてはいかがでしょうか。
大橋屋(旧旅籠鯉屋)
最後にもうひとつ。
東三河地域に馴染み深い街道といえば、東海道見附宿(静岡県磐田市)から浜名湖北部を経由して本坂峠を越え、豊川を渡って御油宿に至る「姫街道」があります。
東海道新居関所での「入り鉄砲に出女」の詮議が厳しかったため、女性の旅人が迂回ルートとして姫街道を使ったのがその名の由来という説が有名ですが、これまた諸説紛々です。
この姫街道では、吉田大橋よりも上流で豊川を渡る必要があったため、現在の当古橋(とうごばし)周辺において渡船が行われていました。大名行列ともなると当時の当古村挙げての大仕事になったようです。
豊川を渡す渡船も最盛期には分かっているだけで20箇所程あったそうです。
現存する唯一の渡船「牛川の渡し」が、豪雨災害を乗り越えて、また豊川を渡す日を心待ちにしています。
牛川の渡し
【本日のこぼれ話し】
JR本長篠駅付近で豊川支流宇連川へと流れ込む黄柳川(つげがわ)。
ここに架かるのは1918年に架設された国指定有形文化財の旧黄柳橋です。
アーチと道路面との間に空間があるオープンアーチ形式の橋で、井桁状に組まれた支柱が特徴的なデザインとなっています。
また、アーチスパン(アーチを蒲鉾の断面に見立てた場合の蒲鉾が板に接している面)の長さとしては、当時全国一だったとのことです。
ちなみに俳優の舘ひろしさんの愛知県職員であった祖父がこの橋の設計に関わっていたとのことです。
旧黄柳橋