うるわしの白百合。東三河と戦争のお話し(その2)
豊川市を流れる独立水系の佐奈川。支流帯川と交わり三河湾へと注ぎます。
春には堤防沿いの桜並木が一斉に花開き、土手を覆うように咲く菜の花とのコントラストがとてもきれいです。
もともと佐奈川の流路は蛇行しており、堤防も貧弱であったため、大雨のたびに氾濫を起こしていた一方で、川底は砂利で水はけがよかったことから、降雨時以外は流量が少なく、水枯れも多かったとのことです。
この佐奈川が、現在の姿に改修されることとなったのは、東洋一の兵器工場とよばれた豊川海軍工廠の開庁がきっかけでした。
海軍工廠とは、海軍直営の軍需工場で、当初は、横須賀・呉・佐世保・舞鶴の4工廠において、艦船の造船と武器の製造を行っていました。
その後、日中戦争から太平洋戦争へと戦局が進展し、軍備増強が求められるなかで、豊川海軍工廠は、1939年(昭和14年)に全国で6番目の海軍工廠として開庁することとなります。
豊川海軍工廠は、兵器工場として、主にゼロ戦等の航空機や艦船に取り付ける機銃とその弾丸などを製造していましたが、太平洋戦争において航空機が主力となったことから、それらの需要が大幅に増えたために工廠は発展することとなり、最盛期には6万人近くが交代で勤務していたとのことです。
当時の水道の制水弁の蓋
豊川海軍工廠は、当時の宝飯郡豊川町、牛久保町、八幡村の2町1村にまたがる本野ヶ原(ほんのがはら)に建設され、周辺地域には、電気、ガスの供給施設や工員寄宿舎などの関連施設が複数整備されました。
のどかであった農村は、工廠の開庁により、その後の景色を一変させることとなります。
工廠の発展に伴う人口の著しい増加への対応と国策への協力の観点から、隣接する国府町を加えた3町1村は、1943年に合併し、新たに豊川市が誕生します。
この頃、豊川海軍工廠から豊橋駅へと一直線に延びる現在の県道400号が整備されるとともに、市内を横断する姫街道が拡幅されました。
また、工員の通勤のため、現在の名鉄豊川線が、国府駅から諏訪町駅までの区間で開業するなど、交通インフラも一気に整備されました。
豊川市平和交流館内の説明表示
佐奈川の改修が始まったのもこの時期です。
蛇行していた佐奈川の流路を工廠の東側面に沿って直線状になるように線形を変えるとともに、流量の不足を補うため、もともとは豊川の支流であった帯川を佐奈川支流として付け替える大工事でした。
こうして、豊川市は、豊川海軍工廠とともに発展を遂げます。
しかし、1945年8月7日午前、豊川海軍工廠はB29の空襲により壊滅し、学徒動員の児童生徒などを含む2,500人以上の命が犠牲となりました。
空襲の状況を説明する看板
戦後、工廠を失った豊川市は、財政的にも窮地に追い込まれるなか、工廠の遺産として残った工員寄宿舎などの関連施設を学校や公共施設、公的住宅として利用することで市政を維持しました。
その後、工廠跡地に複数の工場を誘致し、豊川市は、工業都市として復興の道を歩みます。
1952年、佐奈川は改修工事開始から14年の歳月を経て、現在の線形となります。
その際、堤防改修の完了を記念して植樹されたのが、春の訪れを心待ちにさせるあの桜並木です。
本日のこぼれ話し
豊川海軍工廠には、豊川市外にも関連施設があり、豊橋市伊古部に「海岸発射場」という施設があったことを知って、現地に行ってみましたが、遺構などは確認できませんでした。
その代わりに伊古部海岸で発見したのが、これ、エールオブジェです。
伊古部海岸のエールオブジェ
伊古部海岸の美しい海と空とをフレームの中に切り取ることができます。
渥美半島の海岸一帯には昔、笹百合の花がたくさん咲いていましたが、薪を燃料にしなくなり、木を切らなくなってしまったため、生息に適した環境が失われて、花の数も減ってしまったとのことです。
そうしたなか、伊古部の山中で発見された一株の笹百合をきっかけとして、有志の方々が長年にわたって保全活動に取り組んだ末に、伊古部は、多くの花が咲く「ささゆりの里」となったそうです。
つつましくも凛と咲く白い笹百合。
6月になったらもう一度、伊古部海岸を訪れようと思います。