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05 戦国時代の荒波に翻弄されながらも必死に生きた奥三河の人たちのお話し(鳥居強右衛門)

ページID:0335913 掲載日:2022年5月27日更新 印刷ページ表示

戦国時代の荒波に翻弄されながらも必死に生きた奥三河の人たちのお話し(鳥居強右衛門)

 戦国時代、奥三河には山家三方衆(やまがさんぽうしゅう)(奥平氏・田峯菅沼氏・長篠菅沼氏)とよばれる国衆がいました。
 周囲を今川、武田、徳川といった有力大名に囲まれたプレッシャーのなか、いずれに与して生き延びるのか、時流を見定めながら、三氏は時には互いに争い、時には団結して戦国の荒波に抗っていました。
 そうした折、今川義元が桶狭間で織田信長に敗れ、その後、武田信玄がこの世を去ると、戦国時代は加速度を増していき、長篠・設楽原の戦いに至る頃には、三氏の結束は崩れ、親兄弟ですら敵味方となり、徳川方、武田方に分かれる状況となりました。
長篠城址史跡保存館
 1575年旧暦の5月、若き奥平貞昌は、約5百の手勢とともに長篠城に籠城し、武田勝頼軍1万5千と戦っていました。
 長篠城は、豊川(寒狭川)と宇連川とが交わる断崖の上に築城された自然の要塞で、少ない手勢ながらも貞昌は武田の猛攻をなんとか凌いでいましたが、昼夜分かたぬ攻撃で死傷者も増え、兵糧も不足して行くなかで、戦況を打開するため、岡崎城の主君徳川家康に援軍を求めるべく、鳥居強右衛門を使者として送り出しました。
長篠城本丸跡
 長篠城を包囲する武田方は、脱出者を逃さないために、豊川に「鳴子網」と呼ばれる、触れれば音のする仕掛けを張り巡らして警備を行っていましたが、泳ぎの達人で川を熟知する強右衛門は、こうした仕掛けをかいくぐって、豊川が連吾川(れんごがわ)と合流する新城市広瀬付近までの約4キロを泳いで下りました。その後、雁峰山(かんぽうやま)で、無事に脱出したことを知らせる狼煙を上げると、一路、岡崎城まで山道を駆け抜けたとのことです。
豊川(寒狭川)と宇連川の合流地点
 その後は、みなさんもよくご存じのお話しかと思います。
 無事に援軍が来ると知った強右衛門は、一刻も早く籠城する味方に知らせようと、来た道を取って返しますが、途中、武田方の捕虜となってしまい、ある取引を迫られます。
 長篠城内に向かって、
“「援軍は来ない。投降せよ。」と嘘の呼びかけをすれば、助命の上、その後の身も保証する。
 強右衛門は、武田方のこの取引に応じます。
 そして、城の前に引きずり出された強右衛門は、味方に向かってこう叫びました。
“「援軍は来る。あと2、3日持ちこたえよ。」
 激怒した勝頼によって、強右衛門はその日のうちに磔になり命を落としますが、決死の呼びかけに力を得た貞昌は、援軍到着までの2日間、城を守り抜きました。
紅葉の長篠城
 戦国時代の荒波に翻弄されながらも必死に生きた奥三河の人たち、きっと豊川は今と同じように優しく見守っていたのではないでしょうか。

本日のこぼれ話し

 道中、新城市と名古屋市藤が丘・長久手市とを結ぶ高速乗合バス「山の湊号」に出会いました。
 バスに描かれていたのは鳥居強右衛門。
 私のような奥三河の人間にとって鳥居強右衛門といえば、やはり国道151号沿いにあるセンセーショナルなこの看板。
 バスに描かれた「すねえもん」は、特徴はそのままに、かわいらしくディフォルメされていました。
高速乗合バス「山の湊号」
長篠城址史跡保存館案内看板

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