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21 大河ドラマと鳳来寺のお話し

ページID:0430511 掲載日:2022年11月14日更新 印刷ページ表示

21 大河ドラマと鳳来寺のお話し

 今年も残すところわずかとなり、いよいよ佳境を迎えるNHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。
 歴史群像劇の名手である三谷幸喜さんが描く波乱万丈の人間ドラマに魅了されて、にわか大河ファンになってしまいました。
 名立たる有名武将が活躍する戦国時代ならともかく、馴染みの薄い鎌倉時代でしたが、登場人物が次々討たれては退場して行く衝撃の展開を毎週ジェットコースターに乗ったような気分で楽しんでいます。
 そんなこともあって、「鎌倉殿の13人」が終わってしまうのは大変残念ですが、年が明ければ、本県ゆかりの英傑・徳川家康公を松本潤さんが演じる「どうする家康」の放送が始まるということで、そちらもとても楽しみです。
 さて、歴史の様々な場面で舞台となることの多い東三河ですが、そのなかでも鳳来寺は、後世に名を残す幾人かの武将らと浅からぬ縁があるようです。
 今回、にわか知識ではありますが、近年の大河ドラマに登場した武将と鳳来寺にまつわるお話しをご紹介したいと思います。
鳳来寺山の鏡岩
鳳来寺山の鏡岩
 まずは、「鎌倉殿の13人」から源頼朝公。
 平安時代末期の1159年、朝廷における天皇側近の対立と結びついた平氏と源氏の権力争い「平治の乱」で、平清盛に敗れた頼朝の父・源義朝は、落ちのびた先で家臣の裏切りにあって討たれてしまいます。
 この時13歳であった頼朝は、東国へと逃れますが近江で捕まり京へと送られます。その際、死刑は免れないものと見なされていましたが、清盛の継母、池禅尼の嘆願などによって、伊豆の地への流刑となります。
 そうしたなかにあって、頼朝は逃亡中、殺生禁断の地とされる鳳来寺を頼って、僧坊のひとつである医王院に匿われていたという説があるそうです。
医王院跡
1,425段ある石段の900段目付近にある医王院跡
 その後、幾多の戦いを経て平氏を滅ぼした頼朝は、鎌倉幕府を開いた後、厚い信頼を置いた御家人、三河国守護の安達盛長に命じて、鳳来寺を始めとする三河の古刹を再建します。鳳来寺参道の石段もまた頼朝の寄進によるものと伝わっていることから、これらはかつての恩に対する報いだったのかもしれません。
 この時、再建された「三河七御堂(みかわしちみどう)」には、鳳来寺の他、豊橋市の普門寺や赤岩寺、豊川市の財賀寺などがあります。
 なお、安達盛長は、後に2代将軍頼家の宿老として「鎌倉殿の13人」のひとりとなる人物です。
鳳来寺参道の石段
鳳来寺参道の石段
 時代は下り戦国時代。徳川家康公の誕生にまつわるお話し。
 家康の父・松平広忠とその妻である於大の方は、世継ぎの出来ないことを憂いて、鳳来寺の医王院に籠って祈願し、家康を授かります。
 鳳来寺の当時の御本尊は、開祖利修仙人の手によるものとされる薬師如来で、十二神将とよばれる12体の仏尊に守られていました。十二神将とは、薬師如来と薬師教を信仰する人々の守護者であり、薬師如来の12の大願に応じて、それぞれが12の方角、月、時間を守るとされています。
 家康が岡崎城で誕生したのは、1542年12月26日の午前4時頃、まさに寅の年、寅の日、寅の刻に生を受けました。
 この時、鳳来寺では、十二神将のうち寅の守護者である真達羅大将(しんだらたいしょう)が消え去ったことから、家康は真達羅大将の化身だとされました。 
 なお、真達羅大将は家康が死去した後、もとの位置に戻ったそうです。
 その後、こうしたエピソードに感銘を受けた3代将軍家光は、本堂や薬師堂の修復とともに、三大東照宮のひとつに数えられる鳳来寺山東照宮を建立することとなります。
鳳来寺山東照宮
鳳来寺山東照宮
 最後は、2017年放送の大河ドラマ「おんな城主直虎」から、徳川四天王のひとり「井伊の赤鬼」こと井伊直政公。
 遠江国井伊谷の領主であった井伊氏は、戦国大名今川氏の配下となりますが、桶狭間の戦いで主君今川義元が討ち取られ、ともに戦った当主直盛も討たれると、政情は一気に混乱の様相を呈します。
 直盛の戦死を受けて当主となった直政の父・直親でしたが、同様に家督を継いだ主君今川氏真から謀反を疑われて誅殺されてしまいます。
 そうした井伊家の窮地に登場したのが、先代直盛の娘であり出家して龍潭寺にあった次郎法師・井伊直虎でした。
 桶狭間の戦いの後、今川氏の力が衰えるのにしたがい、周辺の有力大名による今川氏所領への侵攻が激しくなって行きます。
 こうした情勢のなかで、井伊家では血筋を絶やさぬよう、直親の遺児である直政を守るため、やはり殺生禁断の地とされる鳳来寺に匿うこととしたのです。
 その後、井伊谷は徳川家康によって掌握されましたが、家康家臣の養子となった直政が、家康の目にとまって小姓に取り立てられると、再び井伊家が領有することを許されました。
井伊家菩提寺の龍潭寺
井伊家菩提寺の龍潭寺
 それからの直政の戦場における活躍は目覚ましく、後に家康から滅亡した武田家の旧家臣団を率いることを任されることとなります。この時、直政が武田四天王のひとりである山県昌景の朱色の軍装を引き継いだのが「井伊の赤備え」でした。
 直政の「井伊の赤備え」でのデビュー戦は小牧・長久手の戦いで、ここでの戦果により大きく名を上げることとなりますが、その裏には、「赤備え」に身を包んだ若武者を死なせてはならぬという名門武田家の意地があったとされています。
 なお、小牧・長久手の戦いは、豊臣秀吉と徳川家康とが直接対決した唯一の戦いです。
 小牧・長久手の戦いの舞台となった長久手市には、今秋11月1日にジブリパークも開園しました。
 この機会に新城市の高速乗合バス「山の湊号」に乗ってお出掛けしてみてはいかがでしょうか。
鳳来寺山から新城市門谷地区を望む
鳳来寺山から新城市門谷地区を望む

本日のこぼれ話し

 それぞれ個性的で愛すべきキャラクターの登場人物たちが毎週のように討たれては退場していく「鎌倉殿の13人」。
 そのなかでも私が最も気の毒に思ったのが迫田孝也さん演じる源範頼公です。頼朝の異母弟で、現在は浜松市である遠江国蒲御厨(かばのみくりや)で幼少期を過ごしたことから、蒲殿(かばどの)とも呼ばれています。
 作中では、稀代のトリックスターである異母弟の義経はもとより、それぞれが一筋縄では行かない御家人たちの間に立って、頼朝との関係を取り持つ心優しきバランサーとして描かれていますが、無茶な言いがかりで謀反の罪を着せられて殺されてしまいます。
 そんな蒲殿ですが、実は、源義仲追討などの戦功によって、三河守に任じられています。
 これは形式的な任官ではなく、現在の御津高校東側にあったとされる茂松城を居城として、不本意にも謀反の罪で失脚させられてしまうまで、しっかりと三河の国を統治されていたということです。
茂松城があったとされる山中
茂松城があったとされる山中

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