20 豊川と水力発電のお話し
1881年(明治14年)、稀代の発明家トーマス・エジソンにより、アメリカニューヨーク州に水力発電所が建設されました。
翌年、日本では、東京銀座で初めて電灯に明かりが灯り、それを目の当たりにした多くの人が、新たな時代の到来を実感することとなります。
電力による原初の光が灯って以降、日本全国で電力会社を立ち上げる動きが相次ぎ、電灯供給事業が開始されます。
ここ東三河においても、現在の豊橋商工会議所が中心となって、1894年(明治27年)に中部地方では名古屋電灯に次ぐ2番目の電力会社として、「豊橋電灯株式会社」が設立されました。
会社は当初、現在の豊橋市高師地内の梅田川に水力発電所を開設しましたが、水量不足で十分な電力を確保できなかったため、蒸気機関による火力発電所を併設して対応していました。
そうしたなか、電灯への需要は次第に高まり、会社は新たな電源を開発する必要に迫られていきます。
水力発電所のあった梅田川
そこで次に目をつけたのが、1894年(明治27年)に水路改築を終えたばかりの牟呂用水です。
会社は1896年(明治29年)、現在の豊橋市牟呂大西町地内の牟呂用水に水力発電所を開設します。しかし残念ながら、ここでも水量が不足し、火力発電所を併設することとなりました。
牟呂発電所遺構
その後、日露戦争を経て経済が成長していくなかで、電灯が一般家庭に普及していくのとあわせて、工業用の電力需要も増加していきます。
そこで会社は、動力用の電力供給を事業に加えることとして、1906年(明治39年)に社名を「豊橋電気株式会社」と改め、更なる設備投資のための増資を行っていきます。
そして、いよいよ豊川にも水力発電所が作られていくこととなるのです。
1908年(明治41年)、現在の新城市作手保永地内の豊川支流巴川に、見代(けんだい)発電所が開設されます。
この年は、吉田城址に駐屯する陸軍歩兵第18連隊に加えて、新たに陸軍第15師団が高師に駐屯を開始し、豊橋が軍都としての歩みを始めた年でもありました。
以後、東三河の発展にあわせて電力需要は急速に拡大し、これに応えるため、会社は上流部の豊川本流(寒狭川)に次々と水力発電所を開設いて行くこととなります。
見代発電所遺構
1912年(明治45年) 現在の新城市横川地内に長篠発電所 開設
1919年(大正8年) 現在の新城市布里地内に布里発電所 開設
1921年(大正10年) 現在の新城市横川地内に横川発電所 開設
布里発電所の堰堤
特に長篠発電所は、ナイアガラの滝の発電所で採用されたのと同じ縦軸式発電を日本で初めて導入したことから、ナイアガラ式発電所と呼ばれました。
また、発電所で利用される水は、約900メートル上流にある長篠堰堤(えんてい)で取水することとし、取水路には、発電に使用する水量以上の水を川に戻すための余水吐(よすいばき)が設けられました。
その全長100メートルにも及ぶ余水吐から水が流れ落ちる様子の美しさによって、長篠堰堤は日本三大美堰堤に数えられています。
※横軸水車の場合、発電機を隣に並べる必要がある一方で、縦軸水車は発電機との位置関係が上下となるため、狭隘な場所においても、水車を低い位置に設置して落差を稼ぐことが可能となります。
長篠堰堤の余水吐
その後、これらの水力発電所は幾つかの電力会社を経由して、最終的に中部電力に引継がれます。
後に見代発電所は廃止となりますが、豊川本流の3つの発電所は、百年の歳月を超えてなお現役として、私たちに電力を供給してくれています。
今回は、私たちの生活に寄り添う豊川の違った一面をご紹介しました。
※ 発電設備は当時のものから更新されています。
本日のナイアガラ
もうひとつ、奥三河のナイアガラを紹介します。
それは、東栄町にある天竜川水系大千瀬川の蔦の渕(つたのふち)です。
この蔦の渕には竜神伝説があり、滝壺は竜宮城へ繋がっているとの言い伝えがあるそうです。
「とうえい温泉」の近くですので、こちらにも是非お越しください。
最後に余談ですが、「君は天然色」、「幸せな結末」などの名曲を世に送り出したシティ・ポップのレジェンド、大滝詠一(故人)さん。大滝さんが主宰した「ナイアガラ・レーベル」の名称は、「大滝」という苗字にちなんだものだということを最近になって知りました。