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【展示終了】 あいち朝日遺跡ミュージアム企画展『ヤジリの考古学』へ出土品の貸出を行いました
調査研究課の城ヶ谷です。
今回は清須市にあるあいち朝日遺跡ミュージアム企画展『ヤジリの考古学』を紹介します。
今回貸し出したのは設楽町川向東貝津(かわむきひがしかいづ)遺跡、瀬戸市八王子(はちおうじ)遺跡など7遺跡から出土したヤジリ等約50点です。
ヤジリ(「鏃」あるいは「矢尻」)は狩りや戦いに用いられた弓矢の矢の先に装着されるもので、木、骨角、金属などさまざま材質で作られてきました。
旧石器時代後期から縄文時代初期には、先端が尖った石器として、木葉形尖頭器(もくようけいせんとうき)や有舌尖頭器(ゆうぜつせんとうき)などが見られますが、これらの石器は槍の先として用いられたと考えられています。
縄文時代になって徐々に気候が温暖化すると森林が発達し、旧石器時代のナウマン象やオオツノジカなどの大型哺乳類に替わって、森林に暮らすシカ、イノシシ、ウサギなどの中小動物が繁殖したとされます。それらの動物を捕まえるために弓矢が発達したものと思われます。その矢の先に付けられたのが石鏃(せきぞく)です。
尖頭器や石鏃は形や大きさも様々ですが、どれも細かな加工がなされ、シャープに仕上げられています。
弥生時代になると石鏃の大型化が見られます。これは石鏃が狩猟だけでなく、戦闘用の武器として使われるようになったからだと言われています。
古墳時代以降は石鏃に替わって鉄鏃(てつぞく)が主体になります。
戦国期になると弓矢に加えて、火縄銃(ひなわじゅう)が登場します。写真右下の玉は新城市石座神社(いわくらじんじゃ)遺跡から出土した鉛製の玉です。時代は特定できませんが、遺跡のある丘陵から東に500mほど下ると連吾川が流れており、付近で長篠・設楽原の戦いが行われたとされていることから、その時の火縄銃の玉と考えることができます。周辺では同じような鉛製の玉が何点か採取されていますが、遺跡から発掘調査で出土した例としては初めてのものとなります。
また、会場には参考資料として20世紀前半までにパプアニューギニアで実際に使用されていた弓矢も展示されるなど、さまざまな角度からヤジリが取り上げられています。
ぜひ会場でじっくり観察し、当時の人々の暮らしや社会に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
企画展は令和6年6月23日(日曜日)まで開催されています。ぜひご覧になってください。
**この展示は終了しました**
詳しくはあいち朝日遺跡ミュージアムHPをご覧ください ← ここをクリック