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- 災害を今に伝える史跡など東三河地区
- 豊根村、設楽町、東栄町、新城市
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- 豊根村の被災状況
宝永年間(1704〜1710)の大地震では、畑を全滅させるほどの打撃を受けたことが、豊根村誌に記されています。また、享保3年(1718)の大地震では、山崩れのため田畑に石砂が入り、作物が大被害を受け、飢饉となっています。村では、度重なる飢饉の教訓を生かして、食料の備蓄をするようになり、個人でも籾・野老(ところ)・ワラビ・ゼンマイ・イタドリ・ホドイモ・トチの実・クリの実・コゴミ・里芋のタツなどを叺(かます:藁むしろを二つ折りにして作った袋)や俵に詰め天井裏に保存したようです。 - 東栄町の被災状況
東栄町誌には、次のような内容の記載があり、安政の大地震の際に、建物被害、川、道路の損壊があったことがわかります。「東薗目にはこの大地震(嘉永7年(1854)安政東海・南海地震)により家屋敷の場所が崩れ落ちたため、下畑三畝を譲る旨の証文(東薗目 森本斉蔵)が残り、尾呂には小屋が損壊した旨の史料が残る。また、下栗代にはこの地震で被害のあった川筋や道路の修繕のために御役所から金二五両を借りた証文が残っているなど、資料により実質的な被害があったことが裏付けられる」 - 設楽町の被災状況
設楽町誌には、明治24年(1891)濃尾地震の際には、山から落石があったこと、昭和19年(1944)の昭和東南海地震の際には、校庭に割れ目が生じるほどのすごさであったことが記載されています。濃尾地震の体験談では、「家が倒れたり、火災が起こったようなことはありませんでしたが家のなかでは生活で出来ず、戸外で稲刈りの済んだ田の中に、雨戸を置き、むしろを敷いて、その上で生活しました」とあり、家屋の被害があったことも想像されます。
- 新城市の被災状況
南設楽郡誌には、嘉永7年(1854)安政東海・南海地震の際に家屋の倒壊・山崩が多くあり、庭内に地震小屋を建てて数十日間過ごしたしたことが記載されています。新城町誌には、この地震の際に、家屋が幾棟か倒壊した、ことが記載されています。明治24年(1891)濃尾地震の際の状況については、「壇壁・道路・垣・家屋等に若干の破損があった位」(南設楽郡誌)とあり、昭和20年(1945)三河地震の際の状況については、「器物が落ち、時計が止まる程度で損害はなかった」(長篠村誌)とあります。鳳来町で濃尾地震を体験した方の体験談(聞き取り)によると、「対岸の急峻な山の中腹より、大小の岩石ががらがらと音をたてて巴川に落下した」とあり落石も発生しています。過去の地震の際には、このような被害を受けていますが、被害は全体としては軽微であったようです。
- 蒲郡市の被災状況
嘉永7年(1854)安政東海・南海地震では、建物の倒壊や、津波による流失がありました。また新田の堤防の決壊や流失がありました。昭和19年(1944)昭和東南海地震でも、建物の倒壊がありました。昭和20年(1945)三河地震では道路や田畑に亀裂を生じました。金平町では1.5mの隆起を生じ、水田に断層・地割れができました(宗徳寺北側の雑木林の地割れは、市指定天然記念物として保存されています)。
- 豊橋市の被災状況
豊橋市では、宝永4年(1707)宝永地震の際に、建物被害のほか、地震・津波による堤防の決壊・海水の浸入により荒地となりました。
また明治24年(1891)濃尾地震と続く暴風雨によって堤防が崩壊しています。このほかに、豊川河口付近では、天文8年〜天文9年(1539〜1540)に大津波による被害を受けたとされています。(地震に伴うものかどうかは不明。高潮の可能性あり)
- 豊川市の被災状況
嘉永7年(1854)安政東海・南海地震では、小坂井付近は強震で家屋の倒壊があるなど大きな被害が出ました。明治24年(1891)濃尾地震では、宝飯郡で住家の全壊・半壊はあったものの、比較的軽い被害でした。これはこの当時、豊川市域は人口が少なく、水田の多い沖積低地に住む人々も少なかったためと考えられています。昭和19年(1944)昭和東南海地震では、宝飯郡で家屋の全壊・半壊、道路の亀裂などがありましたが、被害は大きくなく、昭和20年(1945)三河地震でも、断層など地盤の変動が生じたにも関わらず被害は局地的でした。
このほか、豊川周辺の集落では、天文年間(1532-1555)に津波(高潮・洪水)が重なって大きな被害を受けています。